2009年09月18日

幸村の幼少期

ニセ真田十勇士「疾風の勇士」第一章から三章まで書き終わりました。
上田城が主な舞台の、幸村幼少期です。
ほぼ全部捏造。フィクションでした。

疾風の勇士では、とにかくここまでを急いで書きたくて、毎日の更新となりました。
実際のところでは、以降が本編という気持ちでいます。

真田幸村の幼少期については、あまりその記載が見られません。勉強不足も大いにあると思いますが、幸村が史実に登場するのは、19歳(くらい)で上杉景勝のところに人質に出されるところから。

初陣については、上杉の厚意によりこの時に「第一次上田合戦」に出たという説と、
上杉の人質から昌幸が豊臣秀吉の人質に勝手に移させた後の、「小田原城の北条攻め」だという説とがあります。
前述なら19歳、後述なら22〜23歳と、いずれにしても当時としてはかなり遅い初陣です。
その頃、真田が武田滅亡、織田、徳川、上杉、豊臣とめまぐるしく、つく相手を見定めていたからだと思うのですが、それにしても遅くないですか?

遅い初陣、19歳の人質に至るまでの生い立ちがわからない……
ここから私の妄想が始まりました。

「昌幸パパ、とても良い出来の幸村を隠したんじゃね?」

作中でも触れておりますが、当時は息子、親、兄弟でもいつ寝首をかかれるかわからない戦国下克上の非常の世の中。息子を優秀な子に育てるにはリスクがあり、諸武将はわりと子育てに失敗している。息子に恵まれていない武将が多すぎる。
その中で、文武両道の非常に優秀な息子を持った場合、妬まれただろうなぁと。
妬まれるだけならいいけれど、真田家くらいの小さな大名となると、その息子を先に潰してしまおうとされるんじゃないか……という戦国時代って怖い時代だよね? だから絶対隠すよね? だから弁丸君って人知られずこっそり大きくなったのね? という、妄想の飛躍が起きました。

史実でも幸村が見直されたのは、大坂冬の陣。
真田が大阪城に入ったと聞いた家康は震えて立てなくなり、昌幸は亡くなっていて、入ったのは息子のほうだと聞くと安堵したと言われています。
幸村は大坂側の武将達の間でも相手にされず、真田丸を作っていたときですら、寝返るのではないかと思われていた。
その真田丸での大活躍で、ようやく「幸村ってすごいじゃん」と思ってもらえたわけです。
いや、あなた、元々優秀だったんですってば。
そうじゃなければ、冬の陣の活躍、夏の陣での家康の馬印を倒すなんてできませんって。


こういう、幸村ドリーム全開の元に、「疾風の勇士」は書かれていて、これからもその視点でバリバリと進んでいきます。
どうぞ、幸村に深い愛を、一緒に感じていただけたら……とても嬉しいです。


posted by 高野尾 凌 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月03日

幸村という名前

今日は続きを書く余裕がありません。
明日、朝が早いので、明日の調べ物もあるので、閑話でお許し下さい。
第四章もいちおう、14で終わりですので、キリがいいのもありますし。

今日は大坂城に行って来て、大坂夏の陣の屏風や色々な物を見てきて、真田幸村の名前について、あらためて色々考えてきました。

皆様もよくご存知のように、真田幸村というのは実は後世による創作であるといわれています。
本名は真田信繁。
幸村というのは後の講談みたいなもので呼ばれてそれが浸透したからと言われていますが、大阪では絶大な人気の武将の名前が、勝手に改名されて、それがこうも広く隅々まで浸透するか?と思いませんか?
私は人気がある武将だからこそ、勝手に誰かが名前を変えちゃったら、「違うわ、ボケ」と思います。
それなのに、いきなり名前が知れ渡っている。
これはやはり、本人がどこかで「幸村」を名乗ったんだと思うんです。
それはどこか。
私は九度山時代ではないかと思うんです。
関ヶ原のあと、真田昌幸、信繁親子は九度山に蟄居されます。監視付きです。
でも、あの幸村のこと、おとなしーく、監禁されていたとは思えない。
だって、何人も影武者がいたんですよ。誰かを幸村に仕立てて、自分はこっそり名前を変えて、真田紐を売りつつ、色んなところの情報を手に入れていたとしか思えない。
九度山では、その人柄ゆえに、皆に好かれていたと言われています。九度山脱出のときに一緒に大阪に入り、真田隊に志願した人も少なからずいるとか。
真田左衛門佐、素晴らしい戦功で、美しい散り際だった。豊臣贔屓の大阪京都で絶大な人気、講談に小説に使おうとする人が出てきて当然。だから色んなところから話を集めて美談を作ろう。
まず、どこに話を聞きに行きます? 九度山しかないと思うんです。
ここで14年ものあいだ閉じ込められて、父親が亡くなっている。さぞかし無念の死に際だっただろう。ここで家康打倒の覚悟を決めたに違いない。
で、九度山に聞きに行くわけですね。
「あのー、信繁さんって、どんな人でした?」
「信繁さん? 誰、それ?」
「ここで蟄居されていた真田さんの息子さんのほうですよ」
「あぁ、幸村さんのことねー。変な名前で聞かないでくださいよー」
ってな感じじゃなかったんでしょうか。
で、ちゃんとリサーチした彼は真田幸村物語を書くわけですね。近畿では幸村のほうが名が通っていたので、そのままばーっと広がっちゃったと思うんです。

では、何故、幸村の名前を使った文書が一通もないのか。
隠し名であったと同時に、幸村にとって「信繁」の名前は、幸隆、昌幸と仕えた敬愛する武田信玄の弟の名前を貰ったものなので、捨てることはできなかったと思うんです。

という、私の勝手な勝手な、「幸村」考でした。
これ書く間に小説書けたな……。
posted by 高野尾 凌 at 22:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 閑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月23日

霧の朝

私の住んでいる所は、大坂夏の陣の「道明寺の戦い」の近辺です。
この道明寺の戦い、真田幸村軍は霧のため到着が遅れ、援軍を待たずに攻撃を開始した後藤又兵衛は討ち死にしてしまいます。
「この辺、生まれた時から住んでいるけど、霧なんて出たことないなー」
と思っていたのですが、今朝、この当たりは深い霧に覆われました。
50年以上住んでいる母も「はじめて」と言っていた位ですから、本当に珍しいことだったと思います。
昨日は気温が下がり、午後から雨が降っていました。夜中に雨が上がり、今朝は昨日より気温が高くて、霧となったように思います。
山に犬の散歩に行こうとした母が「全然見えなかった」と言っていたくらいですから、こんな霧の日、400年も前、周りに建物らしい建物のなかった細い道を、1万もの大軍を率いてここまで来るのは大変だったことと思います。

深い霧を見ながら、ぼんやりと当時に思いを馳せたのでした。


色々と諸事が重なり、遅れていますが、続きはなんとか書いています。
休みが明ければ書けるはず。
また読みに来ていただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。
posted by 高野尾 凌 at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする