2009年09月04日

第三章−1−

 上田の庄は何も変わらず平和そうに見えた。
 その年の冬は比較的穏やかで、春の訪れも早かった。寒さで倒れる人も少なく、冷害用の備えも底をつくことなく、余裕のある越冬だった。
 村人達も笑顔で雪融けを喜び、これも真田の殿様のお陰とたいそう喜んでいた。
 しかし、上田城の中は、緊張感が高まっていた。
 真田軍は織田信長に恭順の意を示し、上田の庄の安堵を保証されていたが、その織田軍自体が天下統一まであと少しと迫り、各所で戦を繰り広げている。その隙を突くべく、小さいながらも信濃の要所である上田地方を我が物にせんと、周りがきな臭い動きを始めていた。
 特に活発な動きを隠さないのが、織田信長に従いながら、三河から駿河へとじわじわと領地を広げている徳川家康である。
 そしてその反対側、東からは北条氏康が虎視眈々と上田を狙っているのがわかる。
 今のところ、徳川と北条でけん制しあって、直接手を出してくる気配はないが、まったく気を抜くことは出来ない。
 真田の跡継ぎは病弱らしい。いや、腑抜けだという。もはや死んでいるのではないか。
 あらぬ噂が飛び交い、水面下では、昌幸さえ屠れば、上田は自分のものとなる。
 源次郎を守るためにとった措置が、かえって昌幸を追い詰めることとなったのは、不幸としかいいようはなかったが、幸隆より受け継いだ智謀智略に富み、勇猛果敢な戦略は衰えるはずもなく、直接手を出すという暴挙に出るまでにはまだ時間がかかりそうだった。
「あと三年。せめて源次郎が十歳になれば、少し早くても元服させて、跡取りとして名前を挙げさせることが出来る。それまでは大きな戦は避けたい」
 昌幸は精力的に周りの武将と外交を続け、精神的圧力をかけることによって、戦の回避を狙っていた。
「御館様、また佐助が抜け出しましたっ」
 情報収集が全てを制すといわんばかりの精神の疲労を伴う情報戦に神経をすり減らしている昌幸に、真田忍軍の組頭が駆け寄ってきた。
 冬に源次郎のところから送られてきた少年忍びは、修行の隙をついては、度々抜け出してしまう。
「行く先は決まっておる。源次郎が戻るように説得するだろうから、放っておけ」
 それよりも、あんな小さな忍びに抜け出される、この忍び衆は大丈夫なのだろうかと、非難をこめて睨む。
「畏れながら、あの者、本物の猿のようにて、飛ぶ勢いは鷲のようでもあり、実際、猿と意思が通じているかのように話している節があって、山での修行となると、猿にまぎれていなくなってしまうので」
 言い訳はみっともないとわかっていながら、主の勘気が怖ろしくて、口が勝手に陳情してしまう。
「ふん、猿飛びか。源次郎はよい忍びを得たものだな」
 ふふと笑って、昌幸は源次郎のいる東春日神社のある山を仰ぎ見た。

 佐助と源次郎がすっかり元気を取り戻してから、鷺宮は上田城に使いを出した。
 佐助の親の手紙と、委細をしたためた手紙を出した。源次郎も佐助を自分の配下にしたいことを願い出る手紙を書いた。
 昌幸からの返事はすぐに届けられた。
 十蔵がその決定を知らせに、雪の深い中を神社までやってきてくれたのだ。
「御館様が一度その忍びを連れてくるようにと。必要があれば、忍び衆の中で訓練せよと」
 決定は源次郎に伝えられ、源次郎はそれに頷いた。
 だが、当の佐助が嫌がって大変だった。
「ここに、おれ、いる。源次郎さまに、仕える。約束した」
 頑なに首を振る佐助に、宮司も十蔵も困り、源次郎が佐助を説得するしかなかった。
「佐助、父上に会ってきてくれ。ずっと離れているわけじゃないんだから」
 それでも佐助は納得しなかった。
「修行も大切だ。俺では佐助に教えてやれないだろう?」
 読み書きは教えてやっている。言葉遣いも、増えてきている。たどたどしい喋り方は癖のようで、言葉数は増えても変わらなかったが。
「修行は、一人で、できる、山で」
 頑として譲らない。実際、一人でいた間も、ずっと修行らしきことはしていたらしい。加えて山の中で動物達に混じって生活していたせいか、動きに無駄がなく、夜の闇でもよく見えている。
「源次郎様、説得するより、命令なさい。貴方はこの者の主なのですから」
 十蔵は自分の主である源次郎に進言する。
 身分の差をひけらかさない源次郎の態度は好ましいが、戦場にあってそんな態度では困る場合もある。
 源次郎を主として導くのは、年上の家来の務めでもある。
「しかし、我らは仲間として……」
「仲間であっても、束ねるのは源次郎様なのですよ」
 はっとしたように十蔵を見つめる澄んだ瞳に、十蔵は私もそうであると頷いた。
「佐助。上田城に行け。父上に会い、父上の命に従うんだ」
 佐助は源次郎を見つめ、膝をついて、従順の意を示した。



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2009年09月05日

第三章−2−

 真夜中にまだ冷たい夜の空気が流れ込んできて目が覚める。
 首をめぐらせると、部屋の隅で佐助が膝を抱えて座り込んでいた。
「佐助……また……」
 源次郎は体を起こして溜め息をついた。
 上田城に佐助を送り出したのはまだ雪が残っている頃。城主の昌幸は佐助の両親の手紙を読み、真田忍び衆に佐助を預けることにしたと返事が来た。
 忍び頭によると、佐助の忍術は甲賀忍者の流れを汲むもので、真田忍びたちも甲賀出身者が多かったので、修行をするには適しているらしかった。
 忍び頭が集めた情報によると、佐助の親は甲賀の中でも傍系の里に当たる一派で、抜け忍として追われたことは事実らしい。二年前に戦で亡くなったのも里の追っ手に確認されているらしい。しかし、子どもがあったことはばれていないという。
 佐助はおとなしく修行を受け始めたと安心していると、ある夜、こっそり源次郎の所に戻ってきた。
 源次郎は驚いて、許しを得たのかと聞くと、佐助は黙ったままで動こうとせず、翌日にきつく言い含めて帰らせた。
 許しが出るまで戻ってはならないと言い聞かせたにもかかわらず、十日に一度はこうして戻ってくる。
 一夜経てばおとなしく帰るのだが、あまりにも頻繁ではさすがに黙って見逃すことも出来ず、罰せられるかもしれない。それにまだ子どもの佐助には、上田城からここに来て、一夜でまた上田城に戻るにはかなりの距離で、修行を続けての往復は体にも負担が大きいだろう。
「戻っては駄目だって、言っただろう?」
 六郎と小介が眠っているので、ささやく声でしか叱れない。
 佐助は膝を抱えたまま、俯いて身を固くしている。
「佐助。明日の朝には帰るな?」
 わずかに小さく頭が揺れる。
「布団を出してきて。一緒に寝よう」
「ここでいい。大丈夫」
 一晩や二晩くらい眠らなくても忍びは平気だと聞いたが、それでも夜中に駆けてきたことを思えば、今夜はゆっくり休ませてやりたい。
「いいから。六郎たちが起きてしまうだろう」
 自分が動かなければ源次郎も眠らないとわかり、佐助は押入れから布団を出してきて、源次郎の横に敷いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 源次郎の微笑み、夜中の暗闇の中でも佐助の目は源次郎の笑顔がよく見える、に、小さな声で挨拶を返す。
 帰ってきてはいけないことはわかっている。修行も心配されるほど辛くはない。
 佐助にとって辛いのは、我が主と決めた人の側にいられず、その身を守れないことだった。
 顔を見れば安心する。だから、どんなに叱られても、忍び頭に罰を受けても、夜の村々を駆け抜けていくのだった。
 翌朝、三人が目が覚めたときには、佐助の姿はなかった。布団も元通りに押入れに入れられており、彼がきたことすら夢だったのかと思うようなあっけなさだった。
「夕べ、佐助が来ていただろう」
 六郎があくびをしながら聞いてくる。
「えー、また?」
 小介が呆れながら頭を掻く。
「わかっていたのか」
「そりゃ、わかるよ。あいつ、源次郎に起きて欲しくて、気配を消さずに入ってくるから。目が覚めない小介に問題がある」
「えーーー、わかんないよ」
「夜襲があったら、小介は一番にやられてしまうぞ」
 六郎のからかいに、小介は頬を膨らませる。六郎に呑気に寝ていたことを指摘されたのも悔しいが、佐助が頻繁に戻ってくるのも気に入らない。
 源次郎は自分たちの主だという自負がある。佐助は横入りしてきたずるい奴だという気持ちがある。
 なにより、源次郎が佐助を気に入って、自ら進んで配下にしたがったのが、たまらなく嫉ましいのだ。
「まだ小介は小さいんだから」
 源次郎がかばってくれるのは嬉しい。本当は源次郎の世話をするのが小介の役目であるのに、そのやり方を六郎に教わりながら、実は源次郎に面倒を見てもらっているのが現状だ。
「すぐにできるようになるよ。今は戦もないから、ゆっくり寝るのが一番いいことだ」
 源次郎が笑いながら小介の頭を撫でる。
 小介は嬉しくなって、へへへと笑い返す。
「源次郎、甘やかすな」
 六郎の窘める声も、まったく気にならなかった。

 上田城に戻る途中、佐助は見慣れない風体の男に気がついた。
 上田の庄の里人ではない。行商の民かとも思えたが、いやに荷物が重そうで、男の目つきが険しく、油断のならない厭な感じがした。
 佐助は気配を消し、近くの民家の屋根に飛び上がって身を伏せた。
 男はまだ佐助に気づいていない。
 見つからない距離をとりながら、佐助は民家から木へ、木から民家へと身を潜ませて、男を追跡した。
 男はそのまま街道を越し、村から峠へと消えていった。
 しかし、佐助は男が峠の入り口で、峠の方向塚に何かを埋めるのを見た。
 一目がなくなるのを待ち、それを掘り出す。中を確かめることもせず、佐助はそれを懐に入れ、やってきた道を疾風の如く戻っていった。

posted by 高野尾 凌 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 第三章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月06日

第三章−3−

 上田城に戻ったはずの佐助が突然目の前に現われて、源次郎は飛び上がるほどに驚いてしまった。多分、塀か木の枝から源次郎めがけて跳躍したのだろうが、慣れていない源次郎には降って沸いたように感じたのだ。
 ちょうど槍の稽古をしていたときで、思わず槍を突き出しそうになってしまい、佐助だと認めて慌てて引いた。
「さ、佐助!」
 六郎と小介も驚いて、ぽかんと佐助を見ていた。
 さすがに宗太郎も驚きを隠せず、源次郎の前に膝をついた姿勢の佐助を見下ろすしか出来なかった。
「城に戻れと言っただろう」
 源次郎がきつい口調で言うと、佐助は懐からそれを取り出して、見てくれといわんばかりに差し出してきた。
「何だ、それは」
 小さく丸められたものは、子どもの拳の半分ほどの大きさで、石のように見えたが、じっくり眺めると石ではないことがわかる。
「変な男、峠の石塚、埋めてました」
 佐助の説明は簡潔で、それより多くのことを知りたければ、こちらから尋問しないといけない。
「変な男? そいつはどこへ行った?」
 宗太郎も近づいてきて、源次郎の手の中身を覗き込んだ。
「峠から、西のほう」
「三河へ抜けたか」
 宗太郎が考え込む。
「これはなんでしょう? 石じゃないですよね?」
「うーん、埋めたからには、つなぎの意味があるんだろうなぁ」
 次に通る仲間に何かを報せるための手段とも思えるが、形は丸いだけで、これといった特徴はない。
「水」
 佐助の単語に、源次郎と宗太郎が顔を見合わせた。
「水に入れてみるのか? ふやけて何かの形になるとか?」
 麩菓子のように形が変わるのだろうかと、宗太郎がぎゅっぎゅっと握るが、固さに変化は見られない。
「伊賀流、秘伝。でも、水に入れる、毒が出る」
 佐助の説明に緊張が走った。
 水に入れれば形が変化し、何らかの伝達方が解明できるが、迂闊に水に入れると毒が出るという仕掛けがある。
「とにかく、水に入れてみよう」
 宗太郎は鷺宮を呼び、鷺宮は難しい顔を隠さず、それを水にいれてみる事を了承した。
 神社の端で風上を選び、毒が空気に溶けても、水に溶けてもいいようにした。周りに集まった鷺宮、宗太郎、源次郎、佐助は手拭いで鼻と口を覆う。
 桶に張った水の中に、その塊をちゃぷんと放り込む。
 それは水を吸いながら、ぷくぷくと空気の泡を出す。その泡に毒が含まれているようで、宗太郎は団扇で扇ぎながら空気を押しやった。
 泡を吐き出し終えると、それはゆるゆると溶けていき、やがて一枚の紙切れになった。
 火箸でその紙を取り出してみるが、中には何も書かれていない。
「水に滲んでしまっただろうか」
 意味のないものだった。もしかして、わざと水に入れさせて、毒を吸わせて暗殺するつもりだったのだろうかと、色々と考えてみたが、答えはわからないといったところだ。
「佐助、他に知っていることはないか?」
 源次郎が問うと、佐助は首を傾げてから答えた。
「炭、炭の粉、こすり付ける」
「この紙にか?」
 宗太郎が火箸に挟んだままの紙を揺らせると、佐助がそうだと頷いた。
 紙を乾かしながら戻り、炭を削って粉を用意する。それを紙にこすり付けると、文字が浮かび上がってきた。
「三重の用心をしている。よほど重要なものなのだろうか」
 形を変え、毒を塗り、文字さえ隠す。その用心深さを施した紙には、日付が書かれているだけだった。
 −水無月 弐日−
「一月後か。何があるんだ?」
 まったくわからないと言ったように宗太郎が腕を組んで首を捻る。
「佐助、すぐに父上にこれを届けてくれ。そして、街道の石塚全てを調べて欲しいと伝えて欲しい。水や毒、炭のこともちゃんと伝えて。急いで」
 佐助は宗太郎から紙を受け取ると、丁寧にたたんで懐に入れ、消えるが如く姿を消した。
「どうしたんだ、源次郎」
「わかりません。……でも、とても厭な予感がするんです」
 怖ろしいものが近づいているような気がして鳥肌が立った。

posted by 高野尾 凌 at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 第三章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

第三章−4−

 佐助が持ち帰った密書は、上田城を大騒ぎさせるには十分な代物だった。
 昌幸はすぐに忍び衆を使い、塚という塚、ほかにも目印に仕えそうな建物や樹木を調べさせた。
 人海戦術は功を奏し、他に五枚の密書を発見した。
 昌幸は五通も隠されていたことに衝撃を受け、上田の庄の警戒を厳重にした。
 それぞれの密書を、十分に気をつけて水で溶かし、開いては炭の粉をまぶして、文字を解読した。
 五通のうち一通は佐助が発見したものと同じ日付のみで、二通には「本能寺」と寺の名前が書かれてあり、他の二通には桔梗紋が描かれていた。
 昌幸は三種類の紙を厳しい目つきで睨みつける。
「殿……これは……」
 只事ではない様子に矢沢が心配そうに声をかけた。昌幸の顔つきに、声をかけるのも憚られるほどだったが、今にも怒髪天を突きそうな昌幸を落ち着かせるのも重臣の役目であると、勇気を出して進み出た。
「この桔梗紋は明智家のものだろう……。本能寺は、……織田信長公が先月より四国攻めの陣所にされておると聞く……。この……日付は……」
 昌幸はぎゅっと目を閉じる。
「いや、……そうではないんだ。何かが起こるとして……、それが何故、この上田に……真田の足元に……」
 昌幸はぶるぶると震えだした。
 有り得ない。そう思いたいのに、結論は一つしか思いつかない。
「……殿」
 お鎮まり下さいという忠臣の声も遠くに聞こえるようだった。
「影斎」
 昌幸は忍び頭を呼んだ。呼ばれた男は、音もなく昌幸の前に現われた。
「忍隊を三つに分けろ。一つはすぐに安土に向かい、不穏な動きがないか調べて来い。しかし真田の忍びと絶対に悟られてはならん」
「はっ」
「一つはこの上田を徹底的に調べろ。同じような密書、仕掛けが残されていないかだ。何一つあってはならん。真田の庄が丸裸になるほどに調べろ。残る一つは上田の警護だ。余所者は入ってから出るまで、不審な動き一つさせないように見張れ」
「御意」
 低く応えがあったかと思うと、影斎はすぐに消えた。あとは昌幸の望むままに忍びたちをまとめてくれるのは間違いない。
「矢沢、関所の取り調べを厳しくしろ。特に……西から入ってくる者たちには荷物の中まで調べるくらい念入りにするんだ」
「わかりました。しかし、荷物に隠しているとも思えませんが」
「もちろんだ。だが、警戒を見せることで、抑制にはなるかもしれん。佐助!」
 矢沢が頭を下げて是を返したところで、昌幸は少年忍びを呼んだ。
 佐助は庭にいたらしく、踏み石のところへ姿を現した。
「源次郎の所に戻れ。いいか、源次郎を守れ。神社に不審な者が現われたときは、源次郎を決して見られぬようにするんだ」
 佐助は頷いたかと思うと、その場で跳躍した。
 それ以外の任務だったならば受けていなかっただろうというような早業に、昌幸は少々呆れながらも、源次郎の心配はせずに済むと胸のつかえを下ろす。
 家臣たちは、この密書が何を示すのか知りたいだろうが、どれほど信用できる家臣たちであっても、今、この予測を話すことはできなかった。
 これには恐ろしいほどの陰謀があり、その陰謀の罪を昌幸にも担がせよう……いや、昌幸が影でそれを起こさせたと思わせるように、これが仕込まれていたとしか思えないのだ。
 密書を握りつぶした。残しておくわけにはいかない。側仕えを呼んで、火鉢を用意させる。
 毒は消えただろうが、念のため、庭でそれを火鉢の中に投じた。
 すべて綺麗に燃え尽きるのを見届けて、昌幸はこれを仕掛けただろう心当たりの人物の、常に上田を狙って目を光らせている悪辣な貌を思い浮かべて拳を握り締める。
「狸め……」
 絶対に思い通りにはさせない。
 西の方角を見つめて、唾を吐いた。

 また戻ってきた佐助を見て、源次郎はどうしたとわけを聞いた。
「殿様の、命令。源次郎様、側で、守る」
「あの紙のことで、何かわかったのか?」
 何かわかったからこそ、こうして佐助が自分の元に戻ったのだろうと思えたのだが、佐助の説明では、ここに戻れと言われた事しかわからない。
「他にも紙は出てきたか?」
 それにははいと答える。
「何と書いてあった?」
「本能寺、桔梗紋」
 忍びの耳は遠くの音もよく拾う。特に人の話し声を漏らさずに聞くように訓練されている。だから本陣の守備を任されている忍びたちは、かなり遠くまで敵の忍者に入られないように、警戒を強くする必要がある。
 日付、寺、家紋。
 その符号に源次郎も必死で考え込むが、答えは出てこない。
「何かが起こるのだろうか。でも、とても厭な気がするんだ。……父上はきっと手を打ってくださるだろうけれど」
 自分も何か役に立ちたい。
 強く願うのに、この密書すら紐解けないようでは、役に立つどころではないのかもしれないと落ち込む。
「この地方に埋められたことに何か意味があるのかな。だとしたら、父上に……真田家に何か徒をなそうとしているような感じがする……」
 この時、源次郎にある一人の大名と面識があったならば、何が起ころうとしているのかを予測することが出来たかもしれない。けれど源次郎はこのときにまだ七歳。どれほど知恵深くとも、絡み合う人の欲望までを知り得ることはできなかった。

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2009年09月08日

第三章−5−

 しとしとと細い雨が降る。
 春の雨は荒れはしないがいつまでも続き、人々の心を沈ませる。
 埋められた密書については、あれ以上のことは何もわからなかった。
 ただ、六月二日に本能寺で何かがあるだろうということは推察できたが、まさか本人たちに問うことが出来るわけもない。
「織田殿は、臣下に対してかなり極端な態度を取られると言われていますからね」
 可愛がる家来と、見せしめにする家来とを、時と場合によって上手く使い分けるという。
 自分が今、どちらの分類に入れられるのか、武将達は戦々恐々とし、ご機嫌を取ることに精神をすり減らすという。
 今可愛がられていても、翌日には不興を買うとも知れず、その原因も信長の気分次第とあっては、対処のしようもない。上手く取り入ることの出来ない者の中には、他人の悪口を吹き込むことによって、自分の処遇を良くするように取り入るという。
 昌幸も織田勢に入ってはいるが、関東への足がかりという捨石に過ぎない目で見られているからか、その権力争いに巻き込まれずに済んでいるようなものだった。
 しかし、中央の大騒ぎを、一歩引いた位置から、世の流れを見据えているものがいる。自分からは手を出さない。騒ぎの隙に零れ落ちてくるのを、上手く掬っているのだ。
「油断ならん」
 まったく油断ならない。
 零れ落ちないならば、零れる様に企むつもりか。
 本能寺にいる織田信長を暗殺する。実行役は明智光秀で、裏で手を引いているのが真田昌幸。いや、逆かもしれない。真田が手を出し、明智がそうさせた。
 どちらにしても、手を出したくてうずうずしていた上田を攻撃する口実が手に入る。
 しかし、それが上手くいくとはとても思えなかった。
 確かに今は羽柴秀吉が中国毛利を攻めに行っており、手薄なのは間違いがないだろう。けれど、明智光秀とて、四国の長宗我部との講和対策に忙しいと聞く。
 本能寺に本陣を置いている限り、守備は簡単には突破できないはずだ。
 いくら徳川お抱えの忍といえども、織田信長の暗殺は不可能に思えた。
「不可能でもいいんだろうな。その罪を真田にきせることが出来たなら」
 そうはさせるかと、昌幸は打てる限りの手は打った。
 真田の庄はぴりぴりとしている。だが、村人達は自分の土地は自分で守るという自覚が高い。ただの農民達ではない。いざとなれば、全員が足軽となって戦える者たちばかりだ。
 皆が昌幸を慕い、上田のためにと誓いを立ててくれている者たちなのだ。
 家臣たちがぴりぴりとし始めると、村人達も団結し、余所者に目を配り始めた。
 雨が続いて田植えの準備の時期になっても、誰もが上田を守ることに一生懸命だった。
 何があってもあの狸の陰謀だけは阻止してやる。
 そう思っていた昌幸の元に、予想を上回る驚愕の報告が届いた。
「本能寺にて明智光秀殿の謀反! 織田信長殿、本能寺にて自刃なさいました!」
「なっ……!」
 京都に潜入させていた忍が第一報をもたらしたのは、六月三日のことだった。
 耳にした報告が信じられず、腰を浮かせたまま口が震えてしまう。
「殿……、これはっ」
 一緒に本丸にいた武将達も、真っ青になって昌幸を見るしか出来ない。
「すぐに……すぐに街道を封鎖しろ。何人たりとも通すな。怪しいやつは捕まえて牢に入れろ。逃げる奴は切り捨ててもいい。いいな、誰も通すな!」
 ばたばたと幾人かが駆けて行く。
「どうなるか……わからん。織田家の頼みは羽柴殿だろうが、彼は今は中国。戻るまでには明智殿が覇権を握るかもしれんが、そうはいかぬだろう。これは……どうなるか、わからん」
 天下か一つにまとまろうとしていた。ずっと続いていた騒乱の世が、平和になろうとしていた。
 織田信長を討ったとしても、明智光秀に取り替われるだけの器はない。
「いや……、布石の布石のつもりか、狸め!」
 明智を動かし、天下を取れば横から掠め取るつもり。明智がしくじれば、濡れ衣を昌幸に着せて、関東を手中に収める算段。
「何故こんな手に乗ってしまったんだ」
 それほどに信長の恐怖は強かったのか……。
 付き合いは薄いが、生真面目で、臣下に優しく、戦死した家来の家族にまで手紙を書いたという、線の細い武将の顔を思い出した。
 翌日、その翌日と、次々と知らせは届いた。
「明智殿は今どうしておられる」
「山崎に陣を移されました。味方になるようにと書を出しておられますが、どなたも様子見の気配が強いようです」
 何故、事前に手を回しておかなかったのか。皆も同じ気持ちだと、さぞ物知り顔でささやいた狸がおったのか。
「羽柴殿は」
「京都に向かっておられるようです。信長公ご子息、配下武将と連絡を取っておられるご様子」
「……決まったな」
 次の知らせは、明智光秀の敗戦だろう。
 もう助けようもない。助けることはすなわち、真田の滅亡にも繋がる。
 しかし、これで真田はまだしばらく、直接的には徳川の攻撃を受けずに済むだろう。
 濡れ衣を着ずに済むのだ。
 だがしかし……。昌幸は腹立ちを隠せぬように拳で床を叩いた。
 あまりに卑怯な。あまりに愚劣な。
 これで徳川はまた動かぬだろう。……じっと、また、次の機会を待つのだろう。
 あと十年。あと十年……。そうすれば源次郎が側にいてくれる。
 父上と呼んでくれるあどけない笑顔を思い出し、なんとしてもこらえてみせると昌幸は誓った。

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2009年09月09日

第三章−6−

「本能寺で謀反……?」
 源次郎がその話を聞いたのは、六月も半ばになってからだった。
 大和から神社の使いがやってきて、織田信長が自刃し、謀反を起こした明智光秀が山崎で羽柴秀吉に討ち取られたことを教えてくれた。
「これからまた戦が続きますかなぁ」
 実はここに来るのも大変だったと言う。どこも人の出入りにはたいそう厳しくなっているという。不審な動きがあれば、捕まるか、切り捨てられることもあるらしい。
「父上はどうされるのでしょう」
 織田家に従うことでこの信濃を安堵されていた。織田信長には息子が何人かいるが、跡目をどうするのか決まっていたようには聞かない。順当に今は一番年長の三男である信孝が考えられるが、世間一般の見方では、信長に比べれば凡庸で、一国を背負っていけるとは思えないという噂だ。
 家臣たちがしっかりしていれば、信孝を支えて、この窮地を乗り越えられるだろうが、その一番の家臣である羽柴秀吉は、実質的に織田軍本体よりも巨大になっているという。
 しかし、信長の遺児を葬って成り代わるとすれば、他の家臣が黙っていないだろう。かといって、自分より弱いと思われる信孝に、信長に仕えていたように我慢できるとも思えなかった。
 ここで従う相手を踏み誤れば、真田家はその激流にのまれたまま没落してしまう。
「昌幸殿の采配に間違いはないでしょう。我々は信じて待つのみです」
 鷺宮の落ち着いた口調に、それはわかっているつもりだが、不安を消すことは出来ない。
 織田、徳川、北条、上杉。強大な列国に挟まれるように存在する小さな国。小さいながら、それぞれが軍を出すならば避けては通れないのが真田の庄だ。
 その織田が滅びかけている。ありえないと思っていたことが、一夜でひっくり返る下克上の時代。
「どこにつくのが一番なのだろう。一番、領民の益になるのだろう」
 そこを間違ってはならない。
 ここを治めるのは真田で、その安堵を約束し、後ろ盾になってもらえる相手。
「本来ならば、上杉家なのでしょうが、あちらは跡目争いの最中ですしな」
 軍神亡き後、家中が二つに割れ、決着がついてもなお、本領地を守ることさえままならぬほどに内乱が続いているという。
「俺には何もお手伝いできない……」
 源次郎は悔しそうに唇を噛みしめる。
 何も出来ない。側にいることさえも。
「今は学ばれることが、お父上のお役に立つことの一歩です。焦っても年をとることは出来ないのですから」
 早く大きくなりたい。けれど、体ばかり大きくなっても意味はない。それはわかっているが、気持ちはそんな自分を許せないのだ。
「毎日一歩ずつ、確かに歩みなさい。それを昌幸殿も望まれておられましょう」
 東春日神社にやってきて二年。体はそれなりに成長した。知識も積み重ね、剣術も上達している。
 それでもまだ戻れない。
「いつになったら戻れるのでしょうか。まだ駄目なんでしょうか」
 そもそも、周りの大名達から隠すために城を出されたことを知らない源次郎は、いつになれば戻れるのかと、そればかりを気にするようになった。
 気持ちは焦り、焦りは行動に出てしまう。
 六郎や小介に対しての思いやりに落差が出てしまい、二人を戸惑わせるようになった。
 鷺宮は繰り返し話し合い、源次郎を宥めながら叱り、叱りながら慰めて、落ち着かない日を過ごしていた。
 それでも苦しげな源次郎を案じて、鷺宮は一人、上田城を訪れた。
「どうしました。珍しいですな」
 昌幸は自室に鷺宮を招き入れた。二人が会うのは、源次郎を神社に送って行って以来だ。
「一度、源次郎様を城に戻されてはいかがでしょう。一度お戻りになれば、落ち着かれると思うのですが」
 源次郎の現状を知らせながら、なんとかしてやりたいと訴えた。
「今は駄目だ」
「御館様……しかし」
「本当に今は駄目だ。真田は……徳川と手を結ぼうと考えている」
 昌幸の顔は苦渋に満ちていた。
「羽柴殿に頼るのが一番かもしれない。しかしまだ羽柴殿に徳川を抑えるだけの勢力はない。二家が拮抗している今は、徳川に背は向けられん……」
 和睦を結ぶのではない。背を向けられない相手ならば、今のところは笑顔を見せるしか手がないのである。
「徳川の手のものが出入りする。絶対に源次郎を表には出せぬ。出来ることなら、地下に牢を作ってでも閉じ込めたいくらいなんだ」
 昌幸の苦悩に、鷺宮もそれ以上は言えなくなってしまう。
「十蔵をしばらく預けよう。三年……。三年あれば、徳川を抑えられる相手も出よう。どれだけ徳川に嗤われても、誹られても、その時にはその相手に頼り、源次郎を戻してみせる。それまで、よろしく頼む」
 昌幸は床に頭をつけて頼み込んだ。
「殿っ、お止め下さい。こんな小さな神社の神主に頭を下げられるなど」
「私は今、上田城の城主ではなく、一人の父親として頼んでいるんだ。息子を預ける相手に頭を下げて、どこが悪い」
「殿……。お任せ下さい」
 鷺宮は固く誓い、十蔵を連れて神社へと戻ったのだった。

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2009年09月10日

第三章−7−

 鷺宮が連れてきた十蔵を見て、源次郎は顔を輝かせた。
「しばらくお世話になります」
 十蔵が頭を下げると、さらに喜ぶと思っていた源次郎があからさまに肩を落としたので、それには十蔵のほうが慌ててしまった。
「迎えに来てくれたんだと思った……」
 源次郎の本音に、十蔵は自分がここに派遣されたわけを知った。
 自分の感情で周りを煩わせるような源次郎ではない。それが宮司を上田城に向かわせてしまうほどに落ち込んでいた。それを目の当たりにして、これを落ち着かせるのは骨の折れる仕事だと実感する。
 しかし、自分は人を慰めるには最悪の人選だと十蔵は思う。口下手で、多くを語れない。話そうと思っても、言葉が出てこないのだ。普段から人と話すを避けているので余計に言葉が少なくなる。
 戦場では言葉など必要ない。特に銃は息を潜めて撃つ絶好の機会を待つのみなので、本当に極端に言葉が少なくなる。何故だか、銃持ちは同じように寡黙な人間が多く、無口に拍車がかかる。
「では、上田城に戻るときは、私もご一緒しましょう。その日までここで、源次郎様にお仕えします」
「えっ、すぐに帰るんじゃないの?」
 しばらく居ると言われたのは、結局は宥めてすぐに帰るものと思っていた。
「お側におります。我が主君は源次郎様ですから」
 源次郎の前で膝を折る。刀を前に置き、臣下の礼をとる。
「ずっとお仕えいたします」
 源次郎は十蔵の肩に手を置いた。
「わがままを言ってごめんなさい」
 小さな声が謝罪する。
 自分の態度が周りを動かしてしまったことを、源次郎はようやく自覚した。
 十蔵はいまや真田軍にとって、大切な銃撃隊の大将となっている。十蔵がいなくなれば、統率に乱れが出たりはしないだろうか。それが心配になる。
「俺は最初からここにお供をさせてくださいと御館様にお願いしておりました。だからこれでいいのです」
 やっと自分のところに戻れたような安心感がある。小さな主だが、我が主君と認めた人のところで働けるのは、侍の至上の幸福でもある。
 十蔵はその日から、上田城の様子、周りの情勢、どのように昌幸が動こうとしているのかを、丁寧に話して聞かせていった。
 特に現在、昌幸の頭痛の種になっている、上田の周り、織田、上杉、徳川、北条の力関係、位置関係などを知りうる限り説明する。
「四氏が睨み合っている真ん中に上田があるのですね……」
「その中で織田家が上杉を攻めつつ、一番の勢力を持っていました。いずれ、天下を統一するものと、誰もが思っていたでしょう」
「父上は小田殿の傘下に入られていた。でも……」
「信長殿は討たれました。織田家として勢力を維持するのか、拡大を続けるのか、それとも」
「羽柴殿が取って代わられるか?」
 源次郎の問いに、十蔵は頷いた。源次郎と一緒に、六郎と小介、佐助も一緒に話を聞いているが、小介は聞いている姿勢ではいるものの理解しているようには見えず、退屈の虫を噛み殺すのに懸命な様子だ。六郎はある程度はわかっているようだが、源次郎のように先を読んで質問をするところまではいかない。佐助は……わかっているのかいないのか、じっと姿勢を崩さず、話を聞いてる。
 忍者は立ったまま、目を開けたまま眠ることも出来るらしいので、もしかして眠っているのだろうかとも思ったが、廊下を行き交う人の足音には敏感に反応を示すので、寝てはいないようだ。
「羽柴殿がどの程度まで織田殿が束ねていた軍勢をまとめられるか、でしょうね」
「上杉家はまだ内乱だとか」
「そうです。景勝殿が城主となられましたが、まだ小規模な反乱が続いているとのことですね」
「徳川と北条……」
 頭の痛いのはその二勢力。今はまだ牽制しあっているが、実のところ、北条は衰退の兆しを見せている。長く続いた北条の威光も、今は名ばかりとなっている。
 だが、徳川が他を抑えて割って出る気配はない。
 負けの戦はしない主義だと聞く。勝てるだけの手を打ってから戦に入るとも言われている。
 幼い頃から人質として各地を渡り、若い頃には手痛い敗戦を喫してからは、水面下の戦で丁々発止の手を打ち、勝てる布陣を敷かなければ出てこない。
 そんなところが昌幸の癇に障るのだろう。
 戦略に智謀はつきものだ。敵の動きを先読みし、先手を取ったり、後詰を阻んだりの智略が戦況を大きく動かす。それは卑怯とは言わない。
 だが、戦に持ち込まず、相手を貶め、気力を削り、数に物を言わせての攻撃は、卑怯といわずして何というのか。
 昌幸も情報を集め、戦略はよむが、相手を貶めてまで勝利に拘りはしない。力で勝てば、それで戦は終わる。
「御館様は徳川と一時的に手を組まれるご様子です」
 源次郎ははっとして顔を上げる。その瞳に、怪訝な色を見て、十蔵はこの子もわかっているのだと感慨深いものを感じる。
 この子は十蔵の父親から軍事の講義を受けていたときも、武将達の宴に紛れ込んでいたときも、過去の戦の話を聞きたがっていた。難しい書物よりも、偉い人の書き残したものよりも、実際の戦記をねだって聞いていた。
 中には自分の手柄ばかりを話すものもいたが、色んな話の節々をつなげては、戦の流れを完全に掴んだりしていたのだ。
 特に源次郎の好んだ話に、昌幸の川中島の合戦があった。
 昌幸がいかに武田信玄が素晴らしかったかを何度も何度も涙ながらに語るのを、膝の上で飽きずに聞いていた。
 そんな話の中から、武将の人柄というのも感じ取っていたのではあるまいか。
「徳川とは三年……と、御館様は仰っていました」
「三年……」
 源次郎は眉を顰め、首を傾けて考え込む。
「そうか……三年。……きっと、羽柴殿が台頭されるか、上杉殿が持ち直されるのをお待ちになるんだ」
 そういって顔を上げた源次郎は、もう何も迷ってはいなかった。

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2009年09月11日

第三章−8−

 父、昌幸が覚悟を決めた三年の間に、自分は何をすべきなのか。
 源次郎の思いはそこに行きついた。父が源次郎に望んでいるものを、三年の間に身につけることが出来るのか。それは源次郎を焦らせはしたけれど、あるべき姿勢を見い出せた源次郎は、それまでのように迷いはしなかった。
 それまでの源次郎は、兵法を学んでいても、いかに「その戦に勝つか」に興味を引かれただけであって、例えば碁盤の上で先を予想するように、自分ならばこう動かすというような、遊びの延長に過ぎなかった。
 勉学については、ただひたすらに知識を積んでいただけで、それよりは領地に出かけ、民の話を聞き、どうすればみんなの暮らしが良くなるのかを考える事のほうが好きだった。しかし、それも所詮は子どもの見識でしかなく、目は上田しか見ておらず、信濃という地域が周りからどのように見られ、どのように欲しがられているかを知ることはなかった。
 静かに一人で落ち込む源次郎に、鷺宮は自分の年を思い出せと笑った。
「貴方の年でそれを自覚できたということは、かなり驚くべきことなのですよ」
「そうでしょうか……」
 まだまだ自分は至らないと、それが心に重く沈む。
「貴方はそれを知らないといけないと思われた。そのために、昌幸殿は三年という年月を稼ごうとなさっている。本能寺の変はどの国にとっても大変な出来事で、予想外だった。だからこそ、この三年の月日は、すべての国にとって貴重な時間となるでしょう。その時期に貴方が世界を見渡せるようになることは、とても、とても大切なことです」
 世の情勢が織田に傾き、決着を見せようとしていた時期。それがひっくり返って、慌てふためく大名達。ここで大名達の本領が見極められるといっても過言ではないだろう。
「父上は、天下に打って出られないのでしょうか」
 ひとかどの大名であれば、天下人を目指すものだ。まして真田昌幸ほどに名前が知られていれば、戦の旗を揚げれば、恐れ戦く武将もいるだろう。だが……。
「主君、信玄公の悲願であった天下ですが、その主家滅亡にあって、昌幸殿は将来に何を見られたのでしょうな」
 これは源次郎には難しいだろうか。
 けれど、今は無理でも、いずれわかってくれるのではないだろうか。
 地を治めることと、天下を目指す事は、まったく別のこととなる。天下を目指せば、信濃は荒れるだろう。昌幸が勇猛だからこそ、戦は苛烈になり、土地の基盤を消耗してゆく。
 それでももっと大きな土地、大勢の武将を抱えていればいずれはと思えるだろうが、それでも武田は滅んだ。
「戦は領地を拡大させても、民は幸せであるとは限らない……」
 源次郎の呟きに、鷺宮はその横顔を見た。境内から向こうの、上田の庄を眺めているようだ。
 澄んだ瞳は知恵深い光を湛えている。母親譲りの容貌は、まだ幼いために、どこか女性めいた美しさを感じさせるが、いつの間にかその横顔に凛々しさを感じさせるようになった。清々しい光の似合う顔だ。
「農民達が言ってました。土地があって、実りがあって、住む家があって、それで十分に幸せだと。そして父上が城主様でよかったと、感謝しているといつも言ってました。良い城主がいて、戦がないのが彼らの幸せなのですよね。城主の格の大きさは、農民にとって絵に描いた餅と同じなんだ」
 鷺宮の期待以上に、源次郎は地を治める意味を知っているようだった。
「では、城主が誰でもいいのでしょうか。民を虐げるものでないならば」
「……それは違うと思います。みんなは父上が城主でよかったと、いつも言ってました。そして感謝していました」
「どうしてでしょうね。実際に、昌幸殿が農作業を手伝われるわけでもないのに」
 鷺宮の意地悪な問いに、源次郎は鹿爪らしい顔をして、考え込んだ。
「それは答えるのにとても難しい質問です。……どうしてだろう」
「難しいですか? 私はとても簡単だと思いますよ」
「え?」
 源次郎が振り向いて、不思議そうに首を傾げる。そんな様子は、八歳の年齢そのままに愛らしい。
「源次郎様はお父上がお好きですか?」
「はい、もちろん」
 一片の曇りもない答え。自信たっぷりに、誇らしげに好きだといえるその心が眩しい。
「それが答えなのですよ」
 鷺宮は笑う。この子もまた、農民達から好かれ、家来からも好かれている。
 昌幸が何度かこぼしたとおり、あと十年、いや、五年早く生まれてくれていれば、昌幸は今、徳川と結ぼうなどと思わなかっただろう。
 源次郎はあまり納得は出来なかったようだが、鷺宮の言うことにも一理があると思ったのか、それ以上は追求しては来なかった。

「十蔵は父上のことをどう思う?」
 剣の稽古の後で源次郎に問われ、十蔵は答えに詰まった。
「どう……と申されても、ご立派な城主様であると思いますが」
 その気持ちに偽りはないので、正直に答えた。元より嘘などつけない十蔵であるので、源次郎もその答えが真実であるとわかる。
「そういうのじゃなくて、父上のこと、好き?」
 なかなか直截な質問である。
「はい」
「どんな風に好き?」
 これは自分の主君に試されているのだろうかと、十蔵にしては珍しく思い悩んでしまった。
「俺は御館様のこと好きー。たまに怖いけど、面白いし、美味しいものくれるし、御館様がいると安心できるし」
 横から小介が無邪気に答える。
「あぁ、安心できるって言うなら、そうだな。御館様がいらっしゃると、城内も賑やかだ。いらっしゃらないと、みんな不安そうにしてる」
 六郎が小介の説明の足りないところを補って答える。
「みんなもそうだよね。きっとさぁ、織田信長も御館様のようにみんなに好かれていたら、謀反なんて起こされなかったんだよ」
「こら、小介」
 十蔵が慌てて制するが、小介は気にしていない。
「だって、みんな言ってるもん。部下に慕われない君主は、ああなってしまうって。上田城ならありえないって」
 小介がむくれながら答えるのに、源次郎は何かに気がついたように頷いた。
「源次郎様?」
 十蔵がどうかしたのかと名前を呼ぶと、源次郎はにこっと笑った。
「いいんだ。なんか、それでいいんだって、わかった気がする」
「そうですか……」
「やっぱり、父上は素晴らしい」
 嬉しそうな笑顔に、十蔵もほっと胸を撫で下ろす。
 源次郎様も素晴らしいですよ。心の中で付け加えながら。

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2009年09月12日

第三章−9−

 源次郎が拾った忍は、常に源次郎につき従っている。
 姿を見かけないときもあるが、そんなときは忍者らしく、床下や屋根裏や、木の枝に隠れて見守っているらしい。
 源次郎は特に気にしていないようだったが、周りは慣れずに戸惑うことが多い。特に小介は何かと佐助に突っかかっていく。
「どこに行ってたんだよ。勉強をさぼるのはよくないぞ」
 ここでかばうと余計にこじれることはわかっているので、源次郎も困ったものだと思いながら、成り行きを見守ることにしている。
「勉強、見ていた」
 無視をして姿を消せば、小介の苛立ちを増幅させるだけと何度も経験したので、佐助も最低限は答えるようにしている。
「見てなかっただろう。居なかった」
「居た。屋根裏」
「そんなの、寝てたかもしれないじゃないか」
「見てた。寝ない」
 いくら答えても、佐助の答え方で、小介は癇癪を起こしそうになる。
「小介。佐助の役目は小姓や近習じゃないんだから」
 源次郎の周りにいるものは、それぞれに役目がある。今は一緒に寝食を共にしているが、本来ならば全然別の役割があるのだ。
「でも、忍でも、読み書きは必要でしょう」
「出来る」
 確かに佐助は読み書きはもちろん、計算もできる。
「出来たって、意味はわからないんじゃ、お役目を果たせないだろうって言ってるんだ」
 こうなると、既に子どもの駄々でしかない。
「今度から、する」
「ふん!」
 結局は佐助が折れる形になるのだが、それが何故か小介には気に入らないらしい。
 最近頻繁に起こる問題になってきていて、源次郎は二人の様子に溜め息をつくしかない。
「どうすればいいんでしょう」
 思わず宗太郎に愚痴めいたものをこぼしてしまう。
「放っておけ。そのうち、殴り合って解決するさ」
「えー?」
 そんな乱暴なと源次郎は思う。
「放っておけないなら、お前は二人の主として、ちゃんと二人に懲罰を加えなくてはならん」
「ええっ」
「そりゃそうだろう。俺から見る限り、お前は二人を平等に扱っている。それなのにお前の寵愛をめぐって喧嘩をするようなら、それは小姓には過ぎた行為だと、叱って罰を加えるのは当たり前のことだろうが。今はまだお前の配下は四人だが、そんな少人数でこんな問題を起こさせるようでは、お前の器が甘く見られているんだ」
 遠慮のない物言いに、源次郎はひどく落ち込んでしまった。
「寵愛だなんて……」
「論功行賞は揉め事の種だぞ。家来に文句を言わせるな。お前にはその責任がある」
「宗太郎殿、それは本来、御館様のお役目です」
 十蔵が源次郎をかばうように口を挟む。
 幼い頃から勉学や寝起きを共にして、固い絆を結んでいく小姓たちは、いずれ主の一番身近な武将として、戦場においても身を挺して護るほどに、主に傾倒していく。そうなるように導くのは、本来ならば、昌幸や小姓の親たちが教えていくことである。
「だが、ここに御館様はいない。ここが小さな上田城であるなら、城主は源次郎だ。その責はすべて源次郎が負うものだろう」
 口論になれば、十蔵に不利がある。
 不言実行の口下手な男は、舌戦には一番不向きだ。
 それでも源次郎のためにと、なんとか反論しようと試みると、後ろから袂を引っ張られた。
「宗太郎先生の仰ることが正しい。俺がどちらにも何も言わなかったことが悪いんだと思う」
「源次郎様……」
「ちゃんと考えるから。それに、本当はきっと、こんな話を誰にもしちゃいけなかったんだ」
 こうして源次郎が尊敬する二人が口論する。それは間違いなく、源次郎が愚痴をこぼしてしまったからだ。
 自分の言葉一つで臣下が争うことがある。それは源次郎にとって辛い事実であった。
 六郎と小介と三人だけのときは、まるで友達のように遊んでいれば問題なかった。勉強も遊びのうちで、碁で喧嘩をしてもすぐに笑いあえた。
 しかし、そんな時期は過ぎてしまったのだ。
 自分の立場を考えた時、一言一句が部下を惑わし、決断を誤ると部下は離れていく。
 その事実が怖くなった。
「源次郎様、それを学ばれるために、ここにいらっしゃるのですよ」
 背後から穏やかな声がかかる。微笑を浮かべた鷺宮が立っていた。
「宗太郎、お前の言うことは間違ってはいないが、今のは師として源次郎様を導く言葉ではなく、源次郎様をけなしていたに等しい。だから十蔵殿が怒ったのだ。源次郎様に謝罪しろ」
 一転、厳しい声が宗太郎に向けられる。
「……申し訳ありませんでした。源次郎様」
「いいえ、俺こそ、至らずにごめんなさい。気付かせてくださってありがとうございました」
 確かに教師らしくない言葉ではあったが、宗太郎の言うことに間違いはなかった。
「十蔵もありがとう」
 十蔵は姿勢を正して頭を下げた。
 それからしばらく、佐助は一緒に勉強をしていたが、五日も過ぎる頃になると、またふっと姿を消してしまう。
 勉強が終わる頃に戻ってきた佐助は、源次郎に山の麓を通った人物について報告をした。
 佐助は神社の周囲にいくつかの仕掛けをしているらしく、それに何かが引っ掛かると、様子を見に行くのである。不審な人でなければ、すぐに戻ってきて床下にもぐって護衛についているのだ。
「佐助、またさぼったな」
 小介が突っかかってくる。
「小介、佐助はさぼっていない」
「どうして源次郎様はこいつをかばうんですか」
 六郎が横から止せと小介を止めるが、佐助に突っかかるのに抵抗のなくなった小介は、源次郎がかばったことが気にくわないようで、不平を遠慮なくぶつけてくる。
「それは俺に不満があるということか、小介」
 優しく宥められるだろうと思い込んでいた小介は、厳しい声に呆然と源次郎を見た。
「佐助には佐助の役目があって、それに従っていただけだ。佐助に何を命じたのかまで俺は小介に報告しないといけないのか。佐助は結果を俺でなくて小介に報告しないといけないのか。小介は俺より上に立つものなのか」
 源次郎は諭すように言ったつもりだったが、源次郎に叱られたことのない小介にとっては、それは苛烈な叱責と同様だった。
「も、……申し訳……ありません……」
 小介の目に涙が浮かび、俯いてしゃくりあげながら謝罪する。
 その頭を優しく撫でた。
「不満があるなら俺に言ってくれ。俺は小介を蔑ろにしているか? そう思うならば言えばいい。佐助だけを優遇しているつもりもない。だけど、今後、何かあってもすべてを話すわけにはいかない事もある。それで俺が信じられないなら、俺に考えを聞きに来て欲しい。二人が争うことじゃない」
 わかって欲しいと言うと、小介はうんと頷いて、佐助にも頭を下げた。小さな声ではあったけれども、ちゃんとごめんなさいも言えた。
 源次郎のまっすぐに伸びた背中を見つめながら、十蔵は安堵の息を吐いた。
「ご立派なご城主になられるでしょうな」
 鷺宮が呟くのに、誇らしげに頷いた。

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2009年09月13日

第三章−10−

 真田昌幸は信濃の一国を守るために、徳川家康と手を組むことにした。
 手を組むとは言っても、実際は徳川に対して恭順すると言うことだ。戦があれば請われるままに兵を出し、その見返りとして、信濃には攻め込まないという、確かなようでいて、いつ覆されるとも限らない不確かな約束だ。
 それでも徳川と組むことは、北条に対する牽制にはなる。
 真田と組んでいる限り、北条に攻め入らせて、信濃をみすみす渡すようなことはしないだろう。
 徳川は西を向くより、関東を抑え残して、先に北を手中に治めたがっている節があった。
 ごたごたの続く今なら、越後の竜を伏せることも出来ると目論んでいるようだ。
 北へ踏み込むには上田を通っていくのが道の事情もよく、攻め入りやすいのだろう。
 しかし、上杉家も跡目争いから落ち着き始めた。雨降って地固まるの例え通り、勝ち残った臣下たちの結束は強いと聞く。
 領内はまだ落ち着かないが、士気盛んな兵士達は、勝ちの勢いを得ており、下手に突っ込めば返り討ちにあうのは必定だろう。
「上杉家には有能な家老が代々ついておるらしいな」
 三河に赴いた昌幸は、家康の愚痴めいた話を聞く羽目になった。
「直江家ですな。しかし、今の代は娘しかいなかったはずですが」
「婿養子を取るだろう。景勝の小姓上がりに、聡明と噂の若衆がおるらしい」
「そうですか」
 相槌を打つだけにとどめる。決してこちらの意見を言ってはいけない。昌幸がそう言っていたと言わせないためにも。
「上杉には武田の娘が嫁にいったのだろう。どんな娘か知っておるか」
 この言い方にはかちんときた。こともあろうに武田信玄の姫を、その辺の娘と変わらぬように言ったのだ。信玄を信奉していた昌幸には、耐え難い物言いであった。しかし、それを表に出してはならない。
「菊姫様にはご幼少のみぎりに数度お会いしただけですが、淑やかで聡明な姫であられました」
「上杉に行ったのは、いわば人質と同然だろう」
 確かにその意味はあっただろう。婚儀を結ぶことで、武田はなんとか生き残ろうとした。
「左様ですな。ですが、武田滅亡の折に、どなたかがお迎えに行かれたようですが、景勝殿は正室と迎えたからには戻せぬ、以後も大切にすると仰られたとか」
 それは真実であったので、差しさわりのないように話した。その話は意に添わなかった様で、家康はふんと鼻を鳴らしただけだった。
「しかし、まだお子は出来ぬようだな」
「家中が落ち着いたばかりのようですから。これからでしょう。まだお若いお二人ですし」
「真田殿のところは男子がお一人だとか」
 上杉の跡取りから、すぐに自分のところへ話を振られる。元々これを探るために上杉の話を出したのだろう。
「一人おりますが、前にもお話したように、体が弱く、とても跡取りとして期待は出来ないようです。今も母方の田舎に療養に出しております。そこでも病ばかりのようで、外に出られぬ日のほうが多いとか」
 困ったものだとうな垂れて見せる。
「それはお困りだのう。しかし、真田殿もまだお若い。これから男子誕生も望めましょう」
「えぇ、それはかなり期待しているのですが」
「だったら、体の弱いお子は、どこかに養子に出してもよかろうなぁ」
 びくりと体が震えた。
 動揺を表に出してはいけないと思うのに、隠しきれない驚きと腹立ちが湧き出てくる。
「体は弱いらしいが、たいそう利口なお子だという噂でしたな。北条殿が羨ましがられていてなぁ」
「親馬鹿な我が子への期待が、一人歩きをしてそのような話になったのでしょう。お恥ずかしい限りです。昔は神童、長じては凡人の言葉通り、いや、起きて勉学もままならず、今は凡人以下の有様でございます」
 なんとしても諦めさせたい。そうでなければ、源次郎を北条に差し出す羽目になる。
「しかし、一度お目にかかりたいものですな。療養なさってはいても、気候のよい時期には戻られることもあるのでしょう」
「いいえ、二年前に送り出してからは、私も一度も会っておりません」
 源次郎を徳川や北条に渡すぐらいなら、ここで袂を分かとうとも構わない。
「真田殿もなかなかに業の怖い方ですなぁ」
 愉快そうに笑っているが、目は冷たく昌幸を見据えている。
「恐縮です」
 顔を背ける代わりに頭を下げる。床の板目を見つめながら、絶対に源次郎に手は出させないとあらためて誓う。
 それから他愛もない話をしたあと、昌幸が館を退出する時、背中に低い声が投げつけられた。
「しかし、そんなに大切なご子息には、やはり是非とも一度お会いしたいもんだ」
 聞こえないふりをして昌幸は足早に出た。握った拳が怒りに震える。
「御館様、徳川はどのような……」
 帰り道、難しい顔を崩さない昌幸に、矢沢が心配そうに尋ねた。まさかとは思うが、戦になるならば、それなりの覚悟が必要である。
「源次郎のことを執拗に探ろうとしていた。噂というのは止められぬものだな。なんとかせねばいかんな」
 無駄に苛立ちが募るばかりの話し合いではあったが、一筋の光明が見えた。菊姫の事を思い出させてくれたのだ。
 会ったことは数度と言ったが、菊姫を上杉に送っていく護衛に、昌幸もついていた。
 信玄公の気性を受け継いだ姫は、たおやかなうちにも、譲らぬ芯の強さを持った女性だった。義を重んじる上杉家の若殿とは似合いの夫婦となっているだろう。
 もしもの時は源次郎をお願いしてみようか。
 胸に兆した希望に、昌幸はようやく癇症を押さえ込むことが出来た。

「まったく頑迷な」
 ちっ、ちっ、と舌を鳴らしながら、家康は憎々しげに昌幸の座っていた場所を睨んでいた。
 真田昌幸の長男がどれほど優秀であるかなど、隠そうとすればするほど出てくる。実際にどこかに隠したらしいが、家康が仕掛けた罠を、いち早く解いて見せたのは、昌幸ではないと偵察したものからの報告は届いている。
 どこに息子を隠したのかはまだ掴めていない。
 本気で捜しているにもかかわらず、尻尾すらつかめない。昌幸自身が会いにすら行かないのでは、探りようもないのは当然かもしれない。
「しかし、揺さぶりをかけてやったらどうかな」
 いずれ正式に、養子にでも差し出せと脅しをかけるのも面白いが、自ら息子に会いに行かせるように仕向けるのも愉しい。
 上杉の態勢は持ち直しつつある。そうなれば、真田は間違いなくあちらを頼るだろう。そうなる前に……。
 家康はにやりと頬を引きつらせるように笑った。

posted by 高野尾 凌 at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 第三章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする