その年の冬は比較的穏やかで、春の訪れも早かった。寒さで倒れる人も少なく、冷害用の備えも底をつくことなく、余裕のある越冬だった。
村人達も笑顔で雪融けを喜び、これも真田の殿様のお陰とたいそう喜んでいた。
しかし、上田城の中は、緊張感が高まっていた。
真田軍は織田信長に恭順の意を示し、上田の庄の安堵を保証されていたが、その織田軍自体が天下統一まであと少しと迫り、各所で戦を繰り広げている。その隙を突くべく、小さいながらも信濃の要所である上田地方を我が物にせんと、周りがきな臭い動きを始めていた。
特に活発な動きを隠さないのが、織田信長に従いながら、三河から駿河へとじわじわと領地を広げている徳川家康である。
そしてその反対側、東からは北条氏康が虎視眈々と上田を狙っているのがわかる。
今のところ、徳川と北条でけん制しあって、直接手を出してくる気配はないが、まったく気を抜くことは出来ない。
真田の跡継ぎは病弱らしい。いや、腑抜けだという。もはや死んでいるのではないか。
あらぬ噂が飛び交い、水面下では、昌幸さえ屠れば、上田は自分のものとなる。
源次郎を守るためにとった措置が、かえって昌幸を追い詰めることとなったのは、不幸としかいいようはなかったが、幸隆より受け継いだ智謀智略に富み、勇猛果敢な戦略は衰えるはずもなく、直接手を出すという暴挙に出るまでにはまだ時間がかかりそうだった。
「あと三年。せめて源次郎が十歳になれば、少し早くても元服させて、跡取りとして名前を挙げさせることが出来る。それまでは大きな戦は避けたい」
昌幸は精力的に周りの武将と外交を続け、精神的圧力をかけることによって、戦の回避を狙っていた。
「御館様、また佐助が抜け出しましたっ」
情報収集が全てを制すといわんばかりの精神の疲労を伴う情報戦に神経をすり減らしている昌幸に、真田忍軍の組頭が駆け寄ってきた。
冬に源次郎のところから送られてきた少年忍びは、修行の隙をついては、度々抜け出してしまう。
「行く先は決まっておる。源次郎が戻るように説得するだろうから、放っておけ」
それよりも、あんな小さな忍びに抜け出される、この忍び衆は大丈夫なのだろうかと、非難をこめて睨む。
「畏れながら、あの者、本物の猿のようにて、飛ぶ勢いは鷲のようでもあり、実際、猿と意思が通じているかのように話している節があって、山での修行となると、猿にまぎれていなくなってしまうので」
言い訳はみっともないとわかっていながら、主の勘気が怖ろしくて、口が勝手に陳情してしまう。
「ふん、猿飛びか。源次郎はよい忍びを得たものだな」
ふふと笑って、昌幸は源次郎のいる東春日神社のある山を仰ぎ見た。
佐助と源次郎がすっかり元気を取り戻してから、鷺宮は上田城に使いを出した。
佐助の親の手紙と、委細をしたためた手紙を出した。源次郎も佐助を自分の配下にしたいことを願い出る手紙を書いた。
昌幸からの返事はすぐに届けられた。
十蔵がその決定を知らせに、雪の深い中を神社までやってきてくれたのだ。
「御館様が一度その忍びを連れてくるようにと。必要があれば、忍び衆の中で訓練せよと」
決定は源次郎に伝えられ、源次郎はそれに頷いた。
だが、当の佐助が嫌がって大変だった。
「ここに、おれ、いる。源次郎さまに、仕える。約束した」
頑なに首を振る佐助に、宮司も十蔵も困り、源次郎が佐助を説得するしかなかった。
「佐助、父上に会ってきてくれ。ずっと離れているわけじゃないんだから」
それでも佐助は納得しなかった。
「修行も大切だ。俺では佐助に教えてやれないだろう?」
読み書きは教えてやっている。言葉遣いも、増えてきている。たどたどしい喋り方は癖のようで、言葉数は増えても変わらなかったが。
「修行は、一人で、できる、山で」
頑として譲らない。実際、一人でいた間も、ずっと修行らしきことはしていたらしい。加えて山の中で動物達に混じって生活していたせいか、動きに無駄がなく、夜の闇でもよく見えている。
「源次郎様、説得するより、命令なさい。貴方はこの者の主なのですから」
十蔵は自分の主である源次郎に進言する。
身分の差をひけらかさない源次郎の態度は好ましいが、戦場にあってそんな態度では困る場合もある。
源次郎を主として導くのは、年上の家来の務めでもある。
「しかし、我らは仲間として……」
「仲間であっても、束ねるのは源次郎様なのですよ」
はっとしたように十蔵を見つめる澄んだ瞳に、十蔵は私もそうであると頷いた。
「佐助。上田城に行け。父上に会い、父上の命に従うんだ」
佐助は源次郎を見つめ、膝をついて、従順の意を示した。