年が明けて寒さが厳しさを増した頃、長浜の宿屋に一人の武士が宿を取った。
このあたりでは大きめの宿で、乗ってきた馬を安心して預けられるのがありがたかった。
一夜をぐっすり寝られればいいかと取った宿だが、船宿だったので、土間の食堂で夕食も頼むことにした。
今は魚もあまり獲れないらしいが、それでも干物や味噌漬けの魚が食べられて、久しぶりの満腹感にほっとする。
「お侍さんは北陸の人かい?」
宿屋の主人は気兼ねなく話しかけてくるが、武士はあまり話したくはないようで、微かに首を振るだけだった。足元に置いた長細い袋は鉄砲が入っているらしく、どことなく人を避けたいようで、主人もそれ以上の愛想を振りまくのは止めることにした。
「よー、旦那、久しぶり」
賑やかな客が入ってきてくれてほっとする。
「今回は早かったね。京じゃいい女に袖にされたのか?」
「ははは。まぁ、そんなもんだ。それより、元気な声が迎えに出てこなかった。あの坊主たちは?」
最近まで働いてくれていた少年二人の事を聞かれ、主人は気落ちしたように顔を曇らせた。
「それが年越しを待たずに出て行ってしまったんだ。もう少しいてくれと頼んだんだがなぁ」
できることならずっと世話を見つつ、ちゃんと仕込みたいと思っていたのだが、あまりにも急にやめたいと言われ、そのまま出て行ってしまった。
「なんだぁ、それならこんなに急いで戻らなかったのに」
なじみの客に酒を出してやり、人も少ないのをいいことに、主人も向かいに座った。誰かに愚痴をいいたかったのかもしれない。
「移った所を教えろって言う客もいたよ。本当にいい子たちだったんだがなぁ」
いかにも惜しそうに言うので、客のほうが慰める形になってしまう。
「まぁまぁ、仕方ねぇよ、あの幸村はきっと、名のある武士の子だよ。いつまでもこんな船宿で下男働きなんかしているものか」
「親は戦で死んだって言ってたんだがなぁ」
「どことなく気を惹く子だったよな。変な奴に絡まれてなきゃいいんだが」
「佐助が守るだろう……」
がたんと椅子の倒れる音がして、主人と客が横を見た。まだ若い武士が驚いた顔で立ち上がり、二人を見つめていた。
「お侍さん? どうかなさいましたか?」
何か粗相をしただろうか、二人の話がうるさかっただろうかと、主人は申し訳なさそうに謝った。
「今、佐助と言ったか? 子ども二人連れで、一人が佐助?」
武士は震えるような声で、主人に確かめてきた。
「え、えぇ。ここで一月ほど働いていたんですけどね。年の暮れに急に辞めたんです」
「もう一人の名前は?」
「幸村っていいます。ご存知ですか? 二人は天涯孤独だと言ってたんですが」
その名前には眉を顰められた。知り合いではないのだろうか。
「幸村という子どものほうが上品な感じで、佐助という方が守るようにしていたのだな?」
「そうです。辛い仕事ほど進んで代わったり、荒れた手に薬を塗ってやったり。甲斐甲斐しい世話振りでしたよ」
……こんな偶然があるのだろうか。
十蔵は全身が震えそうだった。嬉しくて。
「その二人はどこへ行った? 何か聞いてないか?」
十蔵の気迫に、主人はぶるぶると首を振る。
「何も。あ、ただ、瀬田で連れたちと合流すると。入れ違いになったら、そう伝えてくれって頼まれました」
「連れ?」
「えぇ、そうです。城の人足をしている二人のおじがいると。おじと言っても、血の繋がりはないように思いますよ。二人とも坊主崩れで、経を詠むより戦に出るのが向いているような二人で」
主人の説明に、別人だろうかと迷いが生じる。
けれど。幸村……幸村と心の中で呟いて、一つの可能性を思いついた。
幸隆、昌幸と続いてきた真田の当主。その文字に繋がる名前。傍にいる佐助。
別人であるわけがない。
しかし、無事ならばどうして戻ってこない。誰もが心配していることなど、源次郎ならばわかっていて当然だ。それを裏切るような子でもない。
「幸村のお知り合いですか?」
主人がおずおずと聞いてくる。
「いや、人違いのようだ。勘違いだ。すまない」
二人で逃げたはずの源次郎が、何故か僧兵を二人連れている。
源次郎の行動の理由を必死で考えた。
彼は、知っているのだろうか。上田城がどうなっているのかを。
上田城に戻ろうとした源次郎を自分達が引きとめた。
今の年の源次郎では、戻っても大将として立てられぬ。立てたとしても、外から上田城を取り戻すのは至難の技だ。それは上田城に仕えた者ならば嫌というほど知っている。
若様まで亡くしてはならない。それが真田軍の総意とも云えた。
源次郎がそれを正確に理解して行動していたとしたら?
既に仲間を連れている源次郎の現在に、身の内から震えるほどの感動が押し寄せてくる。
すぐにでも後を追いたい気持ちになった十蔵だが、瀬田からは道が大きく分かれる。京に行ったのか、大和に行ったのか、大坂に向かったのか。
一本間違えばそのまま会えなくなる。
それよりは……。
一晩を熟考して、十蔵は決意を固めた。
今は後を追わない。
上田城に向かおうとした殿を引きとめたのは自分の腕である。その自分が後を追いかけるだけでいいのか。駄目だ。
源次郎が考え、成そうとしていることの、準備こそ、自分の役目である。
離れ離れになった真田配下の武将たちは、このままではいずれ分散し、いずれどこかの戦場で敵味方として対峙してしまうかもしれない。そんなことはさせられない。
むしろ、分散させられたことを好機としよう。敵の動きを逸早く知ることだって出来るのだと。
そのために、北条、松平、村上を繋ぐ役目が必要だ。
殿を引き止めた責任は自分で取ると決めた。
翌朝、鉄砲を担いで出発する武士を見送りに出た主人は、彼がくるりと振り向いたのに驚いた。
「昨日話してくれた二人連れのこと。これで今後一切、忘れてくれないか」
ずしりと重い布袋を渡される。
「え、ちょっと……これは」
あまりの金額に、主人は震える。
「誰に聞かれても、そんな二人はいなかったと話してくれ。誰に聞かれても」
念を押す武士に圧倒されて、主人は口を開けて見上げてくるばかりだ。
「よいな、幸村と佐助はここにはいなかった。頼んだぞ」
ようやく我に返った主人は、両手に乗せられた袋のその重みが、幸村の命の重みにも思えた。これから死ぬまで頑張っても稼げないような金額に、驚きつつも、どことはなく納得していた。やっぱりただの孤児ではなかったのだと。
「わかりました。二人はいなかった。馴染みの客が来ても、子どもを捜す者が来ても、わしは知りません」
「くれぐれも頼む。そうだ、もし、もしも、その二人がここに訪ねてくることがあれば、これを渡してくれ」
もう一つの布袋を渡される。こちらも同じくらいの重みがある。
「こんな高額、預かれません。それに、あの子達は出て行ったんですよ。戻ってこなかったら、どうやってお返しするんですか」
何という無用心な侍だと呆れてしまう。
「その時は自分のものにすればいい。その代わり約束してくれ。あと十年、ここで船宿をしていてくれ。その間に二人に会ったらそれを渡してくれ。それまでの約束金だ」
「お侍さん、金で目の眩む輩も多いんですよ。こんなの、簡単に渡しちゃいけませんって」
おろおろとする様子がおかしい。そんな奴はもっともっとと要求するだろう。
新しい銃を購うつもりだった金だが、それが源次郎に渡るならば惜しくない。わたらなくても、二人をここで食いつながせてくれて、親身に惜しんでくれるこの主人が、悪者だとは思えなかった。
自分に人を見る目はないのだが、源次郎の目は確かなのだ。
「ありがとう、ご主人。くれぐれも頼む」
本当にありがとう、二人を守ってくれて。優しくしてやってくれて。
十蔵は深々と礼をして、さらに主人を慌てさせた。
まずは上田に戻ろう。十蔵は来た道を引き返していった。