しとしとと細い雨が降る。
春の雨は荒れはしないがいつまでも続き、人々の心を沈ませる。
埋められた密書については、あれ以上のことは何もわからなかった。
ただ、六月二日に本能寺で何かがあるだろうということは推察できたが、まさか本人たちに問うことが出来るわけもない。
「織田殿は、臣下に対してかなり極端な態度を取られると言われていますからね」
可愛がる家来と、見せしめにする家来とを、時と場合によって上手く使い分けるという。
自分が今、どちらの分類に入れられるのか、武将達は戦々恐々とし、ご機嫌を取ることに精神をすり減らすという。
今可愛がられていても、翌日には不興を買うとも知れず、その原因も信長の気分次第とあっては、対処のしようもない。上手く取り入ることの出来ない者の中には、他人の悪口を吹き込むことによって、自分の処遇を良くするように取り入るという。
昌幸も織田勢に入ってはいるが、関東への足がかりという捨石に過ぎない目で見られているからか、その権力争いに巻き込まれずに済んでいるようなものだった。
しかし、中央の大騒ぎを、一歩引いた位置から、世の流れを見据えているものがいる。自分からは手を出さない。騒ぎの隙に零れ落ちてくるのを、上手く掬っているのだ。
「油断ならん」
まったく油断ならない。
零れ落ちないならば、零れる様に企むつもりか。
本能寺にいる織田信長を暗殺する。実行役は明智光秀で、裏で手を引いているのが真田昌幸。いや、逆かもしれない。真田が手を出し、明智がそうさせた。
どちらにしても、手を出したくてうずうずしていた上田を攻撃する口実が手に入る。
しかし、それが上手くいくとはとても思えなかった。
確かに今は羽柴秀吉が中国毛利を攻めに行っており、手薄なのは間違いがないだろう。けれど、明智光秀とて、四国の長宗我部との講和対策に忙しいと聞く。
本能寺に本陣を置いている限り、守備は簡単には突破できないはずだ。
いくら徳川お抱えの忍といえども、織田信長の暗殺は不可能に思えた。
「不可能でもいいんだろうな。その罪を真田にきせることが出来たなら」
そうはさせるかと、昌幸は打てる限りの手は打った。
真田の庄はぴりぴりとしている。だが、村人達は自分の土地は自分で守るという自覚が高い。ただの農民達ではない。いざとなれば、全員が足軽となって戦える者たちばかりだ。
皆が昌幸を慕い、上田のためにと誓いを立ててくれている者たちなのだ。
家臣たちがぴりぴりとし始めると、村人達も団結し、余所者に目を配り始めた。
雨が続いて田植えの準備の時期になっても、誰もが上田を守ることに一生懸命だった。
何があってもあの狸の陰謀だけは阻止してやる。
そう思っていた昌幸の元に、予想を上回る驚愕の報告が届いた。
「本能寺にて明智光秀殿の謀反! 織田信長殿、本能寺にて自刃なさいました!」
「なっ……!」
京都に潜入させていた忍が第一報をもたらしたのは、六月三日のことだった。
耳にした報告が信じられず、腰を浮かせたまま口が震えてしまう。
「殿……、これはっ」
一緒に本丸にいた武将達も、真っ青になって昌幸を見るしか出来ない。
「すぐに……すぐに街道を封鎖しろ。何人たりとも通すな。怪しいやつは捕まえて牢に入れろ。逃げる奴は切り捨ててもいい。いいな、誰も通すな!」
ばたばたと幾人かが駆けて行く。
「どうなるか……わからん。織田家の頼みは羽柴殿だろうが、彼は今は中国。戻るまでには明智殿が覇権を握るかもしれんが、そうはいかぬだろう。これは……どうなるか、わからん」
天下か一つにまとまろうとしていた。ずっと続いていた騒乱の世が、平和になろうとしていた。
織田信長を討ったとしても、明智光秀に取り替われるだけの器はない。
「いや……、布石の布石のつもりか、狸め!」
明智を動かし、天下を取れば横から掠め取るつもり。明智がしくじれば、濡れ衣を昌幸に着せて、関東を手中に収める算段。
「何故こんな手に乗ってしまったんだ」
それほどに信長の恐怖は強かったのか……。
付き合いは薄いが、生真面目で、臣下に優しく、戦死した家来の家族にまで手紙を書いたという、線の細い武将の顔を思い出した。
翌日、その翌日と、次々と知らせは届いた。
「明智殿は今どうしておられる」
「山崎に陣を移されました。味方になるようにと書を出しておられますが、どなたも様子見の気配が強いようです」
何故、事前に手を回しておかなかったのか。皆も同じ気持ちだと、さぞ物知り顔でささやいた狸がおったのか。
「羽柴殿は」
「京都に向かっておられるようです。信長公ご子息、配下武将と連絡を取っておられるご様子」
「……決まったな」
次の知らせは、明智光秀の敗戦だろう。
もう助けようもない。助けることはすなわち、真田の滅亡にも繋がる。
しかし、これで真田はまだしばらく、直接的には徳川の攻撃を受けずに済むだろう。
濡れ衣を着ずに済むのだ。
だがしかし……。昌幸は腹立ちを隠せぬように拳で床を叩いた。
あまりに卑怯な。あまりに愚劣な。
これで徳川はまた動かぬだろう。……じっと、また、次の機会を待つのだろう。
あと十年。あと十年……。そうすれば源次郎が側にいてくれる。
父上と呼んでくれるあどけない笑顔を思い出し、なんとしてもこらえてみせると昌幸は誓った。