弁丸は五歳になり、二人の小姓をつけられた。
一人は海野六郎という弁丸より三歳年上の少年で、真田家の本家筋に当たる家の息子であった。ただ、六郎の家は海野家でも分家の中でもかなり外れにあり、父や兄達共々に昌幸に仕えている。
海野の息子達の中でも聡明で、勇敢な少年として名を知られつつあった。
もう一人は穴山小介という少年で、弁丸より一つ年下になる。小介の父親は昌幸直属の隊を率いる大将であったが、戦で片足を失くし、書庫の整理などをしている。父親譲りの負けん気の強さだが、所作や勉学に疎く、一緒に学ぶ相手として相応しいと選ばれた。
二人は幾分緊張しながら弁丸の前で挨拶をした。
「海野繁行が末子、六郎にございます。弁丸様の小姓としてお仕えさせて頂きます」
「穴山唐雪が……えっと…」
六郎と同じように挨拶をしようとするものの、続きがわからなくなり、子介はちらりと隣を見る。
「君は長男なのだから、一子だよ」
六郎が囁き声で教える。
「一子? 小介です。よろしくお願いします」
ちょこんと頭を下げる。
その様子は愛らしくて、昌幸はうんうんと頷いた。
「これが弁丸だ。小姓とはいえ、子供同士だ。身分なく、友達として仲良くしてやってくれ」
鷹揚な昌幸は笑うが、親達にとってはそんなわけにはいかない。
小姓は小さな頃から衣食を共にし、勉学や思想を学び、比類なき忠実さを養ってゆくものだ。戦場にあっては、主の盾になることも厭わぬように育っていくといわれる。
その分、他の武士たちよりも身分も高く、将来的には約束されているようなものだ。
「弁丸ももう幼き子どもではなく、父の片腕となるべく学んでいくのだ。名前もこれよりは源次郎と改めるがよい」
「はい、ありがとうございます」
源次郎は父が少年の頃に名乗っていた名前である。その名前を戴ける事となり、とても嬉しくなった。
「六郎、小介、これからよろしく頼む」
にっこり笑った源次郎の頬には小さなえくぼが出来る。
少し尖り気味のおとがい、細めだが凛々しい眉、涼やかな瞳。後ろで一つに結ばれた髪は、頭を下げるとさらりと肩に流れ、艶やかに黒く光っている。
最初の印象は優しそうでおとなしい若君。
けれど二人がその印象を変えるのに、それほど時間はかからなかった。
わーわーと騒ぐ声は城の奥、子供達が学んでいる部屋から聞こえてきた。
どすん、ばたんと響く音は、なにやら喧嘩でもしているようだ。
「源次郎様、頑張れ!」
小介の声援に、六郎がむっとする。
「小介、何故源次郎の味方をするんだ」
「だって、六郎のほうが体が大きいじゃんか」
取っ組みの最中に余所見をするものではない。形勢は有利だったが、体の小ささを利用して、源次郎が六郎の脛を両手で抱え上げた。
「うわぁ!」
どさっと仰向けに倒された六郎は、すぐに起き上がろうとする。
「こらっ! 何をしておる!」
騒ぎを聞きつけて、大人たちが駆けつけてきた。
「六郎! 若様に何をしたんだ!」
見れば源次郎の髪は乱れ、着物も肩が破れている。ぐいっと拳で頬を拭いた後に、血が滲んでいるのを見た大人たちは大慌てだ。
何が原因であっても、若君を傷つけたことには違いなく、六郎ははっとしてその場に正座した。
二人は昌幸の前に連れて行かれ、昌幸は二人の様子を見てにやりと笑った。
「何が原因じゃ」
格下の六郎から申し開きをすることは許されない。だからじっとこらえるしかなかった。
「源次郎、どうして喧嘩になった」
昌幸は息子に問うた。
「俺から言えば、六郎は異を唱えられません。ですから、六郎からお聞き下さい」
その言葉を聞いて、六郎は驚いて源次郎を見た。
自分の都合の良い様に言って、六郎を罰することも出来るのだ。それなのに、まずは六郎に話させようとする。
けれど喧嘩の原因となったことを思い出し、腹立ちを隠せなくなった。
「六郎、どうした? 遠慮せず、申してみよ」
六郎の表情を見て、昌幸は面白そうに促してみた。
「源次郎様は俺を嵌めようとしている」
「そんなことはせん!」
「するさ! そもそも、汚い勝負をしていたのは源次郎だろう」
「汚くなどない。勝つために自分に条件をつけただけだ」
「俺に言わずに、条件をつけるのが汚いというんだ」
「言えば六郎が怒るだろう」
「言われないほうが怒るに決まってる!」
殿の御前であるということも忘れて、にわかに喧嘩を再開し始めた二人に、昌幸はこら!と大きな声で止めた。
「何の勝負をしておった」
「碁です」
「源次郎は自分にどのような条件をつけたのだ?」
「…………」
言い澱む源次郎に、昌幸は六郎に目を向けた。
「多分ですが……、何手以内で俺に勝つ……みたいな」
「何手? 源次郎のほうが強いのか?」
源次郎は五歳、六郎は八歳である。まともな勝負すら難しいのではないだろうか。
「源次郎のほうが強いです。でも、俺は置石をするのは嫌だったんです。なんとか互角にしようとしていたのに……」
「何手以内で勝とうとしていた?」
父親に聞かれ、源次郎は六郎を見ては、唇を引き結ぶ。
「そのときによって違うんです。長引かせて勝とうとしたり、とても早く勝とうとしたり。きっと、色々な勝ち方をしようとしているんです」
言わない源次郎に代わって、六郎が思っていたことを吐き出した。
「最初から宣言されていたのならまだいいんです。黙ったままで、長引く試合に、俺が苛立つのを見て笑っていたんだ」
「笑ったりするつもりはない」
「やっぱり勝ち条件をつけていたんじゃないか」
源次郎の反論に、六郎はぷいっとそっぽを向いた。
「源次郎、何故、その様なことをした」
確かに、源次郎のしたことは、卑怯といえば卑怯であった。
「俺は……六郎をからかうつもりはありませんでした。本当です。ですが、相手の実力を利用して、自分の力をどれくらい上下させられるのか、それがやってみたくて。六郎なら……ばれても許してくれるかなって……」
膝の上でぎゅっと拳を握る。
「六郎は許してくれなかったぞ。それなのに、喧嘩をして向かっていったのか。謝りもせず?」
昌幸の目は冷たく源次郎の上に注がれていた。
源次郎が叱られ始めたことで、今度は六郎が慌て始めた。
「源次郎は謝ってくれました。でも、俺は頭がかっとしていて、それを聞いても許せなくて、それで飛び掛っていったんです」
「それは源次郎の謝罪の仕方が悪かったのだな。ちゃんと謝れるか?源次郎よ」
「すまなかった。許して欲しい」
源次郎は六郎に向き直って、深く頭を下げた。
「源次郎、わしの前で謝ったら、六郎は許さざるをえん。ちゃんと二人で話し合いをするんだ。わかったな」
「はい」
しおしおと出て行く二人を見て、昌幸は憂鬱そうに眉を寄せた。
三つも年上の相手に碁で勝つばかりではなく、戦略まで立てる息子に、賢いと喜ぶべきなのか、子どもらしくないと嘆くべきなのか、わからなくなってしまった。
「ちょっと出かけてくる」
昌幸は意を決して立ち上がり、共も連れずに出かけていった。